昭和44年11月05日 朝の御理解
御神訓 一、「障子一重がままならぬ人の身ぞ。」
このみ教えを本当に分からしてもらうと云う所から、本当な信心が出来ると思うですね。障子一重がままならぬ人の身ぞ、それが本当にそうだと分からしてもらう。自分で出来ると、そこにその自信を持つ、そしてその実際、出来るはずの事が出来なくなって、初めて分かる。いわゆる、そこで自信を失う。信心て云うのは、神様の願いが私ども一人一人の上に現れる、それが叶う成就して行く事という事なんですね。
神様の一人一人の氏子の上に、神様の願いが成就して行くと云う事。ですから私どもが例えばよしままにならん事は無いと、自分の思う通り言う通りの事が出来ると、例えば致しましても、それは神様の願いによってそう成っていないのですから、それは幸福には繋がりません。あの昔あれはなんて言うですかね、藤原道長でしたかね、「この世をば、わが世とぞ思うもち月の、欠けたることもなしと思えば。」
と云った様な権力をもってどの様な事でもでける、いわば自分の力で出来るとこうそれこそ満月の月の様に。それが欠ける事がないとまでにその自分と云うものを、ま買いかぶっておる人の上に幸せがあったかどうかと云う事を、思うてみれば分かります。それは自分でいろんな商売をやり事業をやり、様々な事を自分でやったんだとそれはね。神様の願いがその氏子の上に成就しておる姿ではないから、幸福に繋がらんのです。
この辺の所を、一つようく分からして貰わなければ。神様の願いが一人一人の氏子の上に掛けられます。ね、その神様の願いが成就して行く事によって、私共は本当の幸福を得る事が出来るのです。自分で出来ると自分でやれると例えばなら、自信をもってその其れをもし自分の思う通りの事が出来けたと致しましても、又はふのよい人は思う以上の事が出来けましても。
自分でやったと云うそれには、決して幸福と云うものは、には繋がらない、と云う事です。それは神様の願いが成就したのではなくて、自分の願いが成就したのだから、幸福に繋がらんのです。それはもう、沢山な人たちの例を見れば分かります。過去、私共知っておる限りの、例えば、いろんな事業に成功したとか、発展したと云う人達が、本当の幸福にはがって居ない。
それは神様の願いが成就したのではなくて、人間の願いが成就しただけに過ぎんからで御座います。ね、信心と云うのはそこん所がです所謂此処にもありますように、その思い方という思う方が出来ると云う事は、本当に紙一重の所にあります。そこで私共の所謂障子一重がままならぬ人の身であると云う、そう云う所に立っての信心。ですからどうぞこうこうあります様にと、ああであります様にと願いますね。
不健康であるなら健康を願います。それは痛ければ痛い痒ければ痒いで、矢張り願わなければ居られませんから願います。だからそう云う例えば願いが成就したからというて、本当の幸福に繋がるもんじゃない。それはどこまでもそれこそ神様の権威にかけて、神と氏子との繋がりあいと、係わり合いというものをですね。作るというのでなくてそういうものだと言う事を、神様の権威にかけてただ見せて下さるだけの事です。
ここが言わば、信心の序の口ですね。ご利益ですねご利益を願うでご利益を受ける、確かにそれはでけます。けどもそのご利益を受けたからというて、人間は幸福になるもんじゃありません。ですからそこん所が分からして頂いたら、願うた事が成就する、と云う事は、本当のおかげじゃない。願うた事が右になり、または左になって、いわゆる願いが成就しない、反対の事になって行くとそう云う様な時こそ、神様の願いが成就しておる時だと、言った様な事が分かる。
そして夢にも思わなかった様なと、いわゆる自分の願うておった以上のおかげになって来ると、そういうおかげが本当のおかげだと、本当のおかげというものはです、もう本当の幸福が、それには伴うておるという意味なんです。本当の幸福が伴わないおかげというのは、これは大したことはありませんね。自分で出来るという人が、儲け出していっておる様なもんとあんまり変わりません。
願うた事が成就する、その事によってです。はぁ本当にこの様な、神様の働きと思わなければおらないと云う様に、そのおかげを受けると云う事は、何処までも神様の働きを分からして下さる事の為に、神様の権威にかけて、いわば奇跡でも現して見せて下さるのです。ですから、それが分からして頂いたらです、何時までも、何時も奇跡を夢みるとか、おかげだけを、願う為の信心が続けられた分では。
よし願いが叶うたにしましても、それは幸福には繋がらない事を、強く分からなぁいけません。そこでなら、信心はどう云う事になって来るかと、いわゆる本格的な信心になって来るの、どう云う事と所かというと、人間私共が、その障子一重がままならぬ人の身である事が分かって来るんですけれどもね、そこでですね、あの、神様の願いとか、神様の思いと云った様なものが、段々分かって来るんです。
そこでその、神の願いに応える生き方、神様の思に添わせて頂こうとする信心態度、だから一番ここが大事になって来る。もう、自分がままになるというのではなくて、ね、神様が、喜んでままになって下さると言う、その事に専念するという、それが本当の信心だと云う事になります。段々例えば、本当に不思議と思われる様なおかげを受けて、成程神様の事が分かって来、神様の心が分かって来るのですから。
その神様の心に添わして頂こう、添い奉ろう、神様の願いに応えて立とう、というそこからが、私は本格的な信心だと思う。もうそこには自分がままにならんならんというもの、無いです。いわゆる人が助かる事さえ出来ればという、教祖が仰っておられる様な、あの純粋な、しかも最高の考え方というものがです、出けて来る。それが信心なんです。いわゆる、神様がままになって下さる。
このへんがまた実を言うと、難しいんですよね。神様がままになって下さると云う事が、それが例えばその次にまめなとも、信心に油断をすなとか、信心は本心の玉を磨くものぞや、と云う様なその信心には油断が出来ない、禁物だと信心はもう本心の玉を磨くものだというその、信心のいわゆる本筋を具体的にここには、表現しておられると思うですね。信心には油断をする事が禁物であると、信心は本心の玉を磨くものであると、信心とはおかげを頂くものぞやとは、仰ってない。
そこで本心の玉を様々なその磨く材料というものを、そういう機会に磨く材料を頂いて磨かせて貰うと云う事。こりゃもう何時も磨くと云う団に付いて頂いておりますね。もうそれこそもう様々な形でも磨くと云う事は出来ます。本気で本心の玉を磨くそれをまあ、具体的に私は限りなく美しくなりましょう、とこういうふうに申します。限りなく美しゅうならせて貰うその為には。
先ず一つ改まろうじゃないですかと云う事になるんです。汚れを自分で気付いたら、はあ、こういう汚れを取り除こうと云う事になるのです。取り除かせ汚れを落とす、だから綺麗に、ま、なります。なら汚れを落としただけじゃいかん、それが光を放つ様に、磨き出されて行かなければならんから、汚れを落として、そこから磨く、様々な私共の手元の所というかね、様々な問題を。
ただ難儀な問題と云った様に頂かずに、問題をいわゆる磨く材料にして行く。ね、まそこん所を、ま私が具体的に申します事は、成り行きを大事にして行こうじゃないか、成り行きをも、尊ばせて頂こうという生き方なんです。成り行きの中には、苦い問題もありゃ、嫌な問題もある、けれどもそれを、嫌と言わず、困った事とせずにです、それによって磨かせて頂く、これによって、磨いて行こうと云う様な信心であり。
そこん所を何時も私が申します。その本心の玉を磨いて参りませんとですね、限りなく美しゅうなって行こうという気になりませんとですね、神様の心に添う事が出来んのです。神様の願いに応えて立つという、本当の元気な心が湧いて来んのです。そこから始めて、言わば私共がね、本気で限りなく美しゅうならせて頂こうと云う様な精神、もうそのこと事態が、神様の願いに添うて行っておる訳ですが。
そういう心でもう一つ奥にある所の神の願い、に応えて行く事が出来るのです。美しい心でだからその先にどう云う事があるかというとです、成程障子一重がままならぬ人の身ではありますけれどもです、障子一重がままならぬ人の身でありますけれども、障子一重どころが、それこそ夢にも思わなかったというおかげが展開して来る。いうなら、ね、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになって下さるという。
氏子が神様本位で行くから、今度は神様が、氏子本位になって下さる働きが、感じられる様に成って来る。それをいわば毎日、体験して行く。神様のおかげには、もう恐れ入ってしまう、毎日が恐れ入った生活が出けて来る様になる。そこにですいわゆる私共が夢にも思わなかった様なおかげの展開がある。そこに始めて人間の幸福があるのです。日々が有難い事だ、勿体無い事だとしての、生活が出けるんです。
ただ神様を使うというか、私も一生懸命やりますと、だから神様少し加勢して下さい、手伝うて下さい、と自分ができると思うておる。そしてちっと出けん所だけを、援助して貰う積り、後押しして貰う様な気持ちでおる人がある。信心とはそんなもんだと思うとる人がある。とにかく人事を尽くしてそうして、その神事を持てと云った様な表現をです、只今申しました様な内容で言う人がある。
なるほど人事を尽くさなきゃなりませんけれども、その人事の尽くし方がです、限りなく美しゅうならして貰い、ね、本気で本心の玉を磨かせて頂いて、そう云う事に人事を尽くすんです。改まらせて頂くと云う事に人事の限りを尽くすのです。そこから初めて、神様の心に応えさして貰えれる心が生まれて来る。神様の願いに応えて立たせえて貰えれる、元気な心が頂かれる。そこん所が、問題ですね。
これだけ一生懸命にお願いしておるのにと、だから、云う事だけではいけない事が分かりますですね、そこでお互いがですね、その願いが成就しない時に悟らなければいけない事、分からなければならない事が、今日、私が思う、障子一重がほんとにままならないものだと云う事を悟らなきゃいけなければいけません。そして私共の願いというものがです、私共の願いではなくて、神様の願いに応える。
神様がままになられる事の為に奉仕する、というふうに申しますかね。所謂神願成就と申しますかね、神願成就の為に私共が奉仕する。そこに今度は私共のね願いの為に、神様の働きが始まる。それを私は夢にも思わなかった様なおかげと。本当の幸福と云う物の伴うたおかげの展開がそこから始められる事になるのですよね。障子一重がままならぬ人の身ぞ、だからここは本当に真剣に信心を求めて、求めて求め抜かせて頂く。
そこに神様のおかげを、頂かなければ、立ち行く事ではないんだと、悟らしてもらう。それが障子一重がままならぬ、と云う事が分かったと云う事になるのです。神様のおかげを頂かなければ立ち行く事ではないのだ、ですから、その神様のお心にそい奉る精進が、本気でなされるのです。神様のおかげを頂かなければ、立ち行かん、自分の知恵とか力では、できない。
いや、いかにも出けておる様にあるけれども、それで出けておるのは、幸福には繋がらない。今日申しましたですね。商売が上手な人があります、仕事が名人と言われる様に、上手な人があります。その事によってです、例えばなら、金満家になった所でです、健康であった所でです、それはただ自分の我情我欲が満たされただけなのですから、我情我欲が満たされたと云う事はですね。
それこそ、藤原道長ではないですけれども、本当にわが世の春を謳歌すると申しますね。自分でもうそれこそ、金の力権力を持ってです、どの様な事でも出けると、思うておる。ま、なら、出けます、なら出けたからというてその人が、幸せかというと、決して幸せじゃない。人間の欲望というものは、もう限りがないのですから、雲の様に湧いて来る欲望の為にです、矢張り自分自身が苦しんでおります。絶対です。
あっちは金満家じゃから幸福だろう、決してそうじゃないです。幸福というのもは神様から許されるもの、そこで私どもの力ではない、いわゆる我無力と云う事を、本当に一日も早く悟らして貰うて、神様のおかげを頂かなければ立ち行く事ではないと云う所から、その神様のお心に添い奉る事に精進する。
いわゆる人事の限りを尽くして行く、そこから神様の働きがね、いよいよ私共の願いの、成就というかね、事の為の働きが頂ける様になる。どんなに考えても、信心しておかげのあるを不思議とはいうまじきものぞと、祈りてみかげのあるも、信心して、みかげのあるを不思議というまじきものぞと。祈りてみかげのない時はこれぞ不思議なる事ぞ、祈りてと云う事は、信心してという意味ですね。
いわゆる不思議な、もうどんなに考えても不思議で不思議でたまらない。教祖様は信心しておかげのあるを不思議と言うてならんと仰るけれど、不思議と思わなければおられませんと云う所に、勿体無いとか有難いが付くのですよ。私は今度豊美の結婚式もう式が、も始まる寸前に、私に挨拶を私せろと云う事になったんですよ。もう皆んな帰る入るばっかり寸前に、だからお父さんとお母さんはちょっと待って下さい。
はあ勿論新郎側から挨拶があるべきだとばっかり思うておったもんですから、もうそれこそ、もう本当に綺羅星の様な、先生方ばっかりですわね。第一金光様がお座り、それに教監、先の教監夫妻が、金光様が新郎の義兄に当たられますからね。教監は叔父さんに当たられますからね。そういう先生、もう古川家、金光家、それから竹部家、もう固まってるです。そういう先生方ばかりが、もうあの広い広間一杯、ずーっと膳についておられる所で、私本当に身が縮まってしまう、
しかも、私はそんな事なんか全然考えていないもんですから、けれども私が、その朝からずっと御神前に出てご祈念をさしてもろうて実感しておる事が、今の事だったんです。どんなに考えても考えても、不思議と言わなければ、おられないと言う事だったんです。 ですから、私は、私の実感を、教祖の神様は、信心しておかげのあるを不思議というまじきものぞと教えて下さいますけれども。
私はもう本当に特にこの度の事を、この結婚についてはもう今朝からその事を思い続けております。不思議で不思議でたまりません。と、まあそれから先私はどう言うたか自分で覚えません。しばらく終わってもうそれこそ水を打った様な中でね、私共夫婦がこちらへ、あのかしこまってからのご挨拶でした。後から若先生と秋永先生がもう今日の先生のご挨拶はもう、テープに取って置きたかったち。
まるっきりご挨拶というよりも、みんなに御理解しておる様な事だった、ものだったというふうに言っております。私の実感なのですから、もう実感でなからにゃ、お話出来ませんもん、大体私はああいう挨拶はもう苦手中の苦手なんです不思議に、けれどもその事が私の実感なのですから。ならそういう実感が、どこから生まれて来るかと、不思議で不思議でたまらない、日々がそれなんだから、ね。
ですから、どう云う事になるかというと、障子一重がままならぬ人の身であると云う事を、もう十分にこれに分かっておる。同時に、神様のおかげを頂かなければ、立ち行く事じゃないんだと思い込んでおること。だから、その神様のお心に添い奉らせて頂く事に、中々精進が出来ませんけれど、いっぱしの精進を、そこに懸けておると云う。昨日でもそうですもんね、夕方から家内と、ま、大坪豊美が、古川豊美に変わらせて頂いた、これからの豊美の事のお願いの為。
またお礼の為に、夫婦で親教会にお礼参拝なり、お願いの参拝をさせて貰いました。ま、あちらでお茶でもゆっくり頂きましてから、帰らして頂くと云う時に、奥様が車を呼びましょう、ちゅうて下さったですけれども、今日はもう久し振りで、夫婦で参っとりますから、今日は歩いて帰りますというて、ま、歩いて、バスで帰る積りで帰って参りました。丁度善導寺のバスの停留所の所へ参りました。
丁度駅の方から参ります、三叉路の所ですね、丁度私共があの石屋の前のバスの停留所に参りましたのと、久富正義さんが、上の方から自動車で下りて来たのが一緒でした。いやちゅてから、もう本当に、何時もの事なんです、これは、ほいですぐドアを開けてくれましたから、入らせて頂いて、乗らせて頂いてから、家内が正義さんに言うんですよ。あら正義先生、すみません、どっか急いで行きよんなさったんでしょう。
ちゅうてから、私は横乗っとって一緒に並んでお前馬鹿んごたあるこつばっかり言うね、ち私が言うた。家内にですね。こげんも間違いのない御用に使うて頂いておる事を、正義さんがどうしてそれを思うかち私が、はあ、も例えば日田まで、ほら日田まで行くばのち、言うたっちゃ、有難うしてこたえんじゃろ、どこんそりゃもう、そりゃ火急な用で行きよったにしましても、その用はもう本当の用じゃない事が分かるです。
神様はこんなんにも使うて下さる事を。本当にもうおかげちゅうもんな、もうじょうけに及びません、ちゅうて正義さんが言うとですよ。今日私はまちっと早く行くはずじゃった所が、ちょっと思い出した事があって、それを済まさせて、出て参りましたら、これですからね、とこう云う訳なんです。そういう例えばおかげの中に何時もあって御覧なさい。不思議と言うちゃならんと思われるけれども、言われるけれども、不思議と思わなければおられません。
もうこりゃもう本当に、人間関係の事だけではありません。金銭の経済もんだけではありません。もう全ての事にです、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだなと云う事を実感して行く生活、そこに私は人間の本当の幸福があると思うんです。それには何というても、先ず我無力である、と云う事を先ず知らなきゃいけません。いわゆる障子一重がままならぬ人の身である。
と云う事を知らなきゃいけません。そこからね、ならねもう自分のままになると云う事より、神様がままになって下さる事の為に奉仕する生活、それを私は、本当の意味での奉仕の生活だと、こう思います。障子一重がままならぬ人の身ぞ、そこん所が分からせて頂く所からです、本格的な信心、本当の幸福に繋がる信心というのは、ここからしか出来ないんだと。私共が願っておる。
というてなら、願っていないかというと、願っております。痛いければ痛い、痒ければ痒いと願っております。その事にによって神様の働きをいよいよ実感さして貰う。ですから、ここん所の、願いよりももう一つ、高度な願いにならして貰うというとこね。今日はこの御神訓を元にして聞いて頂いた。障子一重がままならぬ人の身であると云う事。そこにままにならん所ではない。
それこそままになり過ぎる程しにです、夢にも思わなかったと云う様なおかげが、展開してまいります。だからこそ、勿体無い事だなー、素晴らしいタイミングだなぁ、と思わして貰うから、勿体無い勿体無い、不思議と言うちゃならん、と仰るけれども、不思議と思わにゃはおられん、というおかげの中に住まわせて頂く事が出ける。そこに人間の幸福があると云う様な事を申しましたですね。
どうぞ。